晴れた日のねどこ

答えの出ないことばかり考えている

文章に残しておいた方がいいと思った

コロナ禍がきっかけでブログを書かなくなったことを結構後悔している。その時は書ける状態じゃなかったから仕方がないんだけど、やっぱり一行でもいいからアウトプットをしておけば良かったと思う。

文章を書くのは、わたしにとって自分と向き合う作業だ。書く過程で、自分が何を感じたかが少しずつわかってくる。

 

デザイナーの佐藤可士和は、ラフを描くことで意識がそっちに引っ張られてしまうから、ギリギリまでラフを描かない、と聞いたことがある(多分テレビのドキュメンタリーか何かで見た)

言葉も同じだと思う。自分の感情に言葉を与える過程で、こぼれ落ちてしまうことも確かにある。それが嫌で書かなかった部分もあるけど、わたしは書かないと考える=自分と向き合うことをしないし、出来事を忘れちゃうから、これからはちょっと頑張って文章を残そうと思う。

 

さっきの話の出典がネットにないか探していた時、こんな記事を見つけた。

toyokeizai.net

 

言語化できないのは、わかってないから」

…いやほんと、その通り。少し記事の内容を引用する。

 

言語化は重要で、言語化できないのはきちんとわかっていないからだ。漠然と感じていることと、わかっていることとはずいぶん違う。完全に理解し把握していないと、言語化ができない。こう言えばピッタリくる、という言葉を探し続ける。そうしていると、フィットする瞬間が出てくるようになる。その精度も高くなりスピードも上がってくる。

 

スピード、上げたいよなあ。

がんばろう。