まだ名前を知らない「あなた」へ
2018年9月14日、ブログ開設1周年、9月16日、1本目の記事を書いてから1年が経ちました。続くのかどうか心配していたけど、意外と早かった。
いい機会なので、ここ最近考えていたこととあわせて、現状のスタンスなどを書きます。
わたしが書く最大の理由は、自分自身を知るため。その次は、誰かのため。
わたしは、顔のない大勢の誰かのために書いてるんじゃない。
まだ名前を知らない「あなた」のために書いている。
頭のなかにあるふわふわしたものをふるいにかけて、自分が何を感じて何を考えているのかを探るのが、わたしがアウトプットをする理由だ。ツイッターもブログもそう。一番の欲求は自分のことを知るため。
わたしはいい年をして、自分自身のことがさっぱりわからない。
だから考える。自分のことを知りたいし、自分ともっと仲良くなりたいので。
オフラインで紙の手帳に書けばいいじゃないかと言われそうだけど、オンラインの利点がある。
まず、どこにいても電池があれば書ける。ベッドのなかでも電車のなかでも。思い立ったらすぐに書き込みたいので、紙とペンを取り出すのが苦痛。場所もとるし。
次に、タイムスタンプと検索が便利。手書きだと手が疲れてくるけどスマホやキーボードだとそれが少ない。
そして最大の理由は、SNSだと他人の視点が目に飛び込んでくること。
紙に書いて考えていると、自分で問いを立てないといけない。でもツイッターだと、ほかの人の「自分はこう思う」に触れられる。
場合によっては対話のチャンスも生まれるし、仲良くなれることもある。
ブログもそう。
リアルタイムではないけれど、誰かの記事に触発されて問が生まれる。
自分はどうだ?と考える切っ掛けになる。
それがとても好きだ。
わたしは色々と考えすぎる人間だけれど、本来他人の意見を進んで取り入れたいタイプではない。視野が狭いし、頑固だし。他人から何かを指摘されたら、攻撃かと一瞬身構える。
「他人への干渉は、善かれ悪しかれすべて暴力」
愛という名の下に、私たちは暴力を振るってはいないか?〜推しへのプレゼント問題〜 - 晴れた日のねどこ
これは何度でも言うけど、わたしの基本理念だ。
良かれと思ったことでも、相手への干渉は暴力になりうる。
いわんや、指摘をや。
相手には攻撃の意図がないと頭では理解できても、反射的に逃げたくなる。
それを理性で処理して、毎回それに立ち向かっている。
なんでそんなことをするかというと、「マシな人間になりたいから」。
これに尽きる。
わたしは今でこそ自分のことを気に入ってる。
気に入ってはいるけれど、別に世の中の規範と照らし合わせて自分が正しいとか、自分が善きものだとは全く思ってない。
悪くはないと思っているけど、好きなわけでは多分ない。
ただ自分の今を「そういう状態にあるんだな」と思っているだけ。
平均に足りていない部分や、伸ばした方がいい部分はたくさんある。
自分と違う意見というのは、違う視点を提示してくれるものだと思う。
心がざわつくほど、無自覚な部分や自分の認知の歪みに刺さっている可能性がある。
だからわたしは、自分と違う意見を糧にしたい。自分の弱い部分に立ち向かいたい。より良い人間になるために。
本音では違う意見なんて見たくないと思うときもある。
しんどいし、何かを言われたらそればっかりずっと考えちゃうし。
でも、意見が同じ人とばかりつるんでたら、楽だけどどんどん視野が狭くなる。それが嫌だし、すごく怖い。
わたしは自意識過剰で、自己肯定感が低く、自分が丁寧に扱われない事に不満を抱いて毎日生きてた。そのくせプライドが高く、自分がなぜ認められないんだと憤りを感じていた。ほかの人間は努力もせず、何も考えず、うわべだけ取り繕い本音を話さず嘘ばかりつき適当に生きているだけなのになぜ?と。
そんな人間、まともに相手にしたくないよね。めんどくさいもん。
だけど幸運な事に、本音で話をしてくれる人たちがいた。
その人たちの本音に、時には理解ができないと傷つき、憤り、責められたように感じて泣いた。だけどわたしはその言葉を忘れたくなかった。
意味がわからなくても、ずっと心の中にしまっておいた。
そうしたら、数年後に突然意味や真意がわかって、はっとしたことが何度もあった。あの時あの人がわたしに言いたかったのはこういうことだったのかと、心から実感できた。
それは、蒔かれたことを誰もが忘れた種子が、時間を経て花開いたようだった。
彼ら、彼女らが、あきらめずに言葉をかけてくれた事にわたしは感謝した。
わたしはコミュニケーションの齟齬はチャンスだと捉えている。他人からの本音、その人の言葉で綴られた想いというのは、無視したらいけないと思う。真意を理解したとしても、共感はできないかもしれない。でも、新たな見方を発見するチャンスにはなる。
少なくともわたしには、他者から投げかけられた言葉が、時間を経て芽吹き花開いた経験が何度もあった。土が痩せてたり水不足だったりして(つまりわたし側の準備が整っていなくて)時間はかかったけど。
他人の、心からの言葉というのはギフトなんだと思う。
そしてわたしは同じように、自分が発信する言葉が、いつか誰かの心に触れることがあると信じている。自分の発言で積極的に誰かを変えようという気負いはなくて、もしかしたらいつかどこかでマッチングが起きるかもしれない、そしたらラッキーだなと思ってる。
ボトルに詰めた手紙を誰かが浜辺で拾うかもしれない、そんな気持ちに近い。
でもそれは絶対にある。確信してる。
そのボトルは誰にも見つけられないかもしれない。無視されるかもしれないし、仮に拾ってもメッセージに気づかれず捨てられるかもしれない。
だけどそれでも、書かずにはいられない。
誰かには届くと、なんの根拠もなく信じている。
だって、わたしは色んな人の言葉のおかげで生きてきたので。
少なくとも、今が一番人生でいい状態(ましな状態)だといつだって言える。
わたしに言葉をかけてくれた人たちは、色んな人がいる。今でも関係が続いている人もいるし、対話にならず喧嘩別れのようになってしまった人もいる。
物理的にもう会えない、会うことが難しい人もいる。*1
だったら、もう会えない本人じゃなく、今度はわたしが違う誰かに何かを届けるのが自分の役割だと思った。
誤解しないで欲しいのは、わたしは自分の考え方が優れているとか、こっちの方が良いと言いたいわけじゃない。ただ、現状自分が持っている考えとはまた違った見方があること、それに気づくと世界が広がるし、また変わって見えたよという話がしたい。*2
まだ見ぬ「あなた」宛てとはいえ、ビンに詰めた手紙よりも優先度が高いものがある。それは自分の考えに共感してくれる人と出会うことだ。
共感をしてくれる人は名乗り出てくれる可能性が高い。そうすると交流に発展して、仲良くなれるかもしれない。あらゆる前提条件をスキップして会話が進められる相手というのはかなり貴重だ。
そして人となりを知っていくと、その人はどこかの誰かじゃなくて、「ただひとりのあなた」になる。ただ一人の相手との会話は、どんどん内容の深度が深まる。
対して、ブログの匿名コメントやマシュマロ(の質問や指摘)は、視野が広げられるものだと思う。考えるきっかけを与えてくれるものという位置付けだ。
ただこれは、「顔が見えない誰か」から来るものなので、当然自分の中で優先度は下がる。
わたしが大事なのはわたしの毎日の生活であり、気難しい自分のご機嫌をとることであり、個人を識別できている人と会話をすることだ。
だから日々の雑事に紛れて対応できてないことがあるかもしれない。無視してるわけじゃないのでリマインドしてくれたら思い出す。が、タイミングを逸すると期待に添える回答はできない…。誰かのために生きてるんじゃなくて、自分のために生きてるので。そこは申し訳ないです。
重要視する度合いの図。見づらいな。
幸いなことに、ブログやツイッターをやっていて、マシュマロなどをいただくことがある。
だけど残念なことに、寄り添って欲しいのか、単純に意見を聞きたいのか、文句を言いたいのか、マシュマロだとわからないことも多い。
DMよりハードルが低いと思うので設置をしているけど、質問から連想した自分語りにばかりなっている気がする…。もしそういうものを求めてないなら、そこはすみません…!みたいな気持ちです。
自分語りが好きなオタクだから…すまない…
だからもし対話がしたいなら、どっちかというとDMの方がありがたいなとは思う。相手が何を考えてそう言ったのかがこちらも質問できてわかりやすいので。
過去、毎回5000文字オーバーのラリーをしたこともあります。重たいな…わたしも相手も重いな…!*3
さっきあげた図の「無言の誰か」
私がオンラインで書いてる主だった理由は「私が変わってるから」。私は俗に言う一般のカテゴリには逆立ちしても入れない。そこは諦めた。無論最低限世界に溶け込む努力はしてるし、一般人のフリもしたりする。でも、私は「メジャーにはなれない」。
— 泡沫 (@stargaze_tear) September 16, 2018
それでも、メジャー意見になれなくても、きっとこの広い世界では共感してくれる人がいる。同じ考えを持ってる人を見て安堵する人がいる。
— 泡沫 (@stargaze_tear) September 16, 2018
有難いことに他人が面と向かってないオンラインでならば自分の意見を形にすること、主張することは苦ではないから、私は主張する。表現する。
結論は共感を得たいからであり、私のためなんだけど。でも、どこかで「変わっている」というレッテルに苦しんでいる人や「他の人の意見が見たい」という人のためになれば、私のための行動が誰かに嬉しいや有難いと思ってくれるのならそれは幸せ世界だと思う。だから、私は辞めない。
— 泡沫 (@stargaze_tear) September 16, 2018
勿論、逆に私の言葉で傷つく人も不快になる人も居ると思う。それは本当に申し訳ないけど、万人に問題ない文章は書けないので、「何をやっても嫌いになってしまう2割の人」もしくは「私の行動で嫌いなってしまう6割の人の一部」なんだと思う。もう相性悪いからしょうがない。
— 泡沫 (@stargaze_tear) September 16, 2018
傷つけたことや不快にさせたことを謝ってほしいというのなら、私もその主張に不快を感じるけど謝罪します。本当に申し訳ありません。
— 泡沫 (@stargaze_tear) September 16, 2018
でも、主張もしないで「私が不快だと"思ってる"のに謝らないなんて」って人は私は容赦なく切り捨てる。万人にエスパーなんてできるか!
謝罪がほしいなら謝るし、記事に誤りがあってその誤りで傷つけたのなら熟考して謝罪文を書く。でも、不快や傷ついたからどうしてほしいのかが明確にない人のご機嫌取りはできないので、もうそれは互いスルーしかないと思うんだよね。「主張できる方は辞めないから有利」ではあると思うけど難しいね。
— 泡沫 (@stargaze_tear) September 16, 2018
「結論は共感を得たい」というのはちょっと意見が異なるところなんだけど、概ねお前は俺か?感が高い…!
わたしが書く最大の理由は、自分自身を知るため。その次は、誰かのため。
わたしは、顔のない大勢の誰かのために書いてるんじゃない。
まだ名前を知らない「あなた」のために書いてる。
一周年なのでちやほやふわふわされたいですね!
ちなみに今までで一番好きなマシュマロはこれです。
幼い頃見た金曜ロードショーのシュワちゃんの呪いが解けません。#マシュマロを投げ合おう https://t.co/EUe64c8hWX pic.twitter.com/bPflgMTRxG
— かんそうぶん (@KansouBn) May 10, 2018
なんだろう…なんかすごく好き…
・ジャージーボーイズ感想(これが1ヶ月見られるとか最高)
・ブログを書いている人へ61の質問(あらためてやりたいとぼんやり思ってる。前回の記事はこちら)
・推察をネットで書くのは暴力なのか(マシュマロ返信)
・属性とレッテル貼りと「わからないボックス」、人と関わる方法(マシュマロ返信)
・俺得、全記事振り返り(まじでわたししか得しない。自分大好きかよ!)
・質問をすることの恐ろしさ(書くかなーどうかなー)
長いな!
それでは良い推し事ライフを!!
*1:たとえば、過去の自分自身に話したいという気持ちもある。
*2:ただ軋轢が生まれるかもしれないので、積極的に干渉するのはお互いの心の平穏のために避けた方がいいかもしれないとは思う。特にネットは自分で情報の取捨選択ができるので。わたしが見てる世界以外も当然尊重されるべきだと思っている。だから、不快になったり、無理をしてまで見て欲しいとは全く思っていないです。
*3:ただ、わたしはクローズドなコミュニケーション(メール、LINE、DM)に関しては即レスができない。「返信しないといけない圧」を感じるから、ちゃんと考えないと!と思うと気軽に返せない…。なので普通に数日放置とかやりがちです。すみません