他人とどこまで関わるか。歩み寄るとは何なのか〜その①〜
先日書いたこの記事。
これについたコメントからつらつらと考えたツイートをざっくりまとめ。
非常に有益な気づきがありました。コメントくれた人、ありがとうございます。
RTしたブログに添付のコメントが付いてたんだけど「いったいなにを言っているんだ…?」と感じた後に、これはよく考えると自分が他人とどこまで関わろうとするかのラインが見えるめちゃくちゃおもしろい問いかけなのでは!?と気づいた。 pic.twitter.com/z9MazXtEgN
— かんそうぶん (@KansouBn) 2018年3月22日
まだ他人にうまく共有できるほどはブレークダウンできてなくって、自分だけがわかる考えの塊みたいな状態だけど一旦放流。
この自他の線引きは、おそらく若手俳優オタクの同担意識、マウンティングとも関わってくる部分だと思ってる。(雑に言うと、若手俳優オタクは他者の線引きが曖昧、かつ自分の機嫌のコントロールを他者に依存しているから病むし情緒不安定になる…というのをちゃんと書きたいんだけどなー。マズローの法則、ジョハリの窓、妄想性障害とかと絡めて。ただしアマチュア妄想野郎なので精度は高くない)
- 他人とどこまで関わる?
- 「分かり合えない」を「わかりたい」
- 他人の心の輪郭にふれたい
- 心を剥き出しにして生きる人はきっと少ない
- 無防備の純粋さに心を打たれる
- そもそも脱いでるか、脱がすか
- わたしにとっての「歩み寄る」
- まとめらしきなにか
- マシュマロ返信
他人とどこまで関わる?
全力でこちらを拒否してる相手に、直接尋ねる形での「歩み寄り」をする必要はないと感じてる。そういう人にとって、こちらは生きた人間じゃなくてただのコンテンツだから。
だけど、「理解できない!自分を否定する奴はクソ!」とハナから決めつけるのは思考停止なので嫌。で、できることといったら「どうしてそんなに嫌がるんだろう?」って想像、推測することしかない。だって、全力で拒否してる相手、しかも理性じゃなくて感情面で嫌がる相手に「なんで?」って聞いてもまともな返事が返ってくると思えない。(嫌悪感程度なら聞く可能性はある、実際聞いたし。その基準はわたしの尺度)
「自分を悪く言う人間Aさんに話しかけた狂人」としてこちらを晒して楽しんでる第三者(Bさん含むモブ)に、「なんでそんなことするんですか?」って聞く必要あるか?
ないな…!
だってそれ、その人たちがもっとおもしろくなるだけで、わたしにはなんのメリットもないもんなー。「ほらやっぱり狂人だ!」ってなるだけでは?
- まともな返答が返ってくる可能性が極めて低い
- 問いかけることで相手が喜ぶ
- わたしは嫌な気分になるのがわかりきっている
- だけど理由は知りたい
→どうしてだろう?と考えて自分なりの答えを出し、これからに活かす
うーん、やっぱりわたしにできる最大の歩み寄りはこのラインだな。
- わたしを晒す→自分の常識と違うという拒否反応からの行為
- それを目撃したわたしが嫌な気分になる→揶揄されたという不快感+晒し行為自体が自分の常識と違うという拒否反応からの気持ち
正解は気になる。が、おそらくそれはほぼ絶対にわからない。
仮に相手がわたしに向き合ってくれたとしても、そこを明文化して話してくれる可能性は低いと思う(自分の気持ちや行動原理を言葉にして他人に伝える人は極めて少ない)
「分かり合えない」を「わかりたい」
あーわかったぞ。
「時間と労力をかけて関わるのが無駄(現段階で分かり合える可能性が極めて低いため)」ということのに気づいてはいるけど、ちゃんと自分でそれに納得するための儀式だな。
いつものやつだ!!!
直感では関わっても良いことはないとわかってる。
だけど、どうしてそう感じたのか分析しないと納得できない。直感だけだと自分が信用ならない。だからわざわざ「こうかもな」って仮説を立てる。
それはどこまでいっても仮説でしかなくて、本当のところはわかりはしないんだけど、それでもなんとなく近づいたり理解したような気持ちになれて納得ができる。
何度も言うけれど、これは錯覚でしかない。
だって、これはわたしの仮説でしかないから。
他人の心の輪郭にふれたい
誰かの心の輪郭に触れたように感じて興奮する。
突然の暴力にどう対処するか 〜インターネットで殴られたら〜 - 晴れた日のねどこ
それはこの場合には当てはまらない。
わたしが興奮できるのは、あくまでもその人の生々しい感情の部分に触れたと感じられた時。
自分で考えた仮説じゃない、それでは意味がない。なぜならそれは、真実じゃないかもしれないから。
生々しい感情が何かっていうと、この話だと「晒す」って行為そのものだったり、ブログでいうと「ネガコメを書き込む」っていう行為そのもの。
それらの行為は、どうしたって何かしら暗い感情が漏れ出てる。
普段は澄ました顔をして「悪いことなんてしません」みたいな人間、きれいごとを言ってるんじゃないかしらって人が、耐えきれずに匿名で石をぶつける、その状況がリアルで生々しくて、めちゃくちゃ良い。
気持ちよくなるために他人を殴ってる、それを自覚してるのか、無自覚に自分を正当化しながらやってるのかはわからない。
だけどその行為は、純粋に本能からの行い。それだわ。本能を抑えきれずに心を剥き出しにしてる姿、それを目撃できたっていうのが興奮する。
心を剥き出しにして生きる人はきっと少ない
本能って純粋じゃん。混じり気がない。だから好き。
心を剥き出しにして生きてる人なんてほとんどいない。本音や本心を隠してみんな生活をしている。軋轢を避けるため?自分の心を見せるのが恥ずかしいから?否定されたくないから?傷つきたくないから?理由はわからないけど、大多数の人が心に服を着込んで生きてる。
だから怒ってる人とか見るとワー!ヤダー!と思いつつも妙にテンション上がる部分がある。
(少し話がそれるけど、本音や本心と感情ってちょっと違う。一緒くたにしてる人は多いけど。)
レアなんですよね、心を剥き出しにしてる人を目撃する機会って。
だからネガコメも美味しくいただけるのか…。
いや「不愉快〜」とは思うけど、書き込んだその瞬間っていうのは、めちゃくちゃ純粋に、本能むき出しで書き込んだわけでしょ? それが堪らないんだな…。自分の行動が他者の心を動かした!!という達成感がすごいんだな。
つまり、わたしが頭の中を晒す→それに心を剥き出しにして反応する人がいる→(他者の心の輪郭に触れ)わたしの心が動かされる
この構図が良い。(余談ですが、わたしは本音や本心、自分の頭の中を晒しているけど、感情を晒しているかというと、実はそうでもない)
無防備の純粋さに心を打たれる
これは悪癖だと自覚があるけれど、わたしは泣いてる人見てると笑っちゃうんですよ。
でもこれも多分根本は同じだ。うれしいんだな、その人の剥き出しの姿を目撃できたのが。
この人はいま裸で立ってるんだなと思うと、うれしいし愛しさみたいなのがこみあげるんだなー。
少し疑問なんだけど、子どもが泣いてると「あらあらー!」ってなる人が多いのに、大人が泣いてるとオロオロするのはなんで?あんまり大人は泣かないから? わたしは大人でも同じような気持ちだ…。
あ、でも泣いてる男の人を見たら「だいじょうぶだよー!」ってきゅんとする女の人は多いのでは? よく分からなくなってきたな。
泣いてる男の人を見ると、胸がいっぱいになるよな…。抱きます!みたいな…なんというか…保護せねば…!みたいな気持ちになる…(と言いつつ爆笑したりしてしまうんですけども。そして嫌がられるんですけれども)
あっ!!!無防備!!!そう、無防備!!!!!それ!!!!
泣いてるのも怒ってるのも、裸なんだよ!!!
で、わたし普段から裸でうろちょろしてるので、そういう人を目撃するとワー!この人も服脱いだぞーわーい!って思うんだよ!!(比喩)
そもそも脱いでるか、脱がすか
「他人の心の輪郭に触れたように思えて興奮する」というのは「自分の行動で他者の心が動いた」ときなんだな基本的に。
普通に心を開いて話してくれてる人相手だと、話がぐんぐん進むって意味でエキサイティング!と思うけど、快楽という意味での興奮はない。ただ、小学校の時にプールでやった宝探しみたいな、潜ってきらきらしたものを一緒に探すみたいな、そういう楽しさがある。
わたしの推しは以前ブログに「オーディエンスに対して何かをするっていう事に潜在的な喜びがあった」と書いていた。
ほんとそれな過ぎて…。わかる…わかるぞ…!(わかったような気持ちになる患者)
自分の計算した行動によって他者の心が動くのって、強烈に気持ちがいいし、その快感を知ったら抗えないんだよ…(個人の意見・解釈です)
わたしにとっての「歩み寄る」
質問、意見、異論などがあったらどうぞ、とbioに書き添えてわたしはTwitterのDMを開放している。それは他人と対話がしたいから。
意見が違うもの同士で話をしてみて、新たに違う見方ができればラッキー!と思うので。
それは、お互いの頭の中を見せあって、歩み寄る行為だと思う。
だけどブログのネガコメは、一方的に書き込まれたもので会話のラリーができない。「歩み寄り」ができない。端から相手にその気持ちがないので。
だけどわたしは強欲なので、すべてを養分にして楽しみたい。
だから「歩み寄ったような錯覚」を得るために色々考える。
さっきの心が動かされるって話とは違って、こっちは頭で考えて推測する作業で、また違った楽しみがある。目線を変えてポジティブに捉えたらどうなる?って楽しみもあるし。
まとめらしきなにか
すごい!ブログって楽しいね!始めてよかった。
人生タイミングが命だけど、これはほんと、今じゃないと書けなかったと思う。
推し事関係なくこういうことを書いているブログだったら、注目すらしてもらえなかったはず。
そして少し前だったら、煽りをもろに喰らって相手の思う壺って行動とってただろうし。
マシュマロ返信
心強い!中二病的には「サイコパス」って響きがかっこよく感じてしまうので、ちょっと残念な気もします!(残念なのはわたしの頭です)
— かんそうぶん (@KansouBn) 2018年3月24日
推し語り!わたしもしたいです!ありがとうございます!#マシュマロを投げ合おう https://t.co/EUe64c8hWX pic.twitter.com/Hw3feTnUqJ
ところでサイコパスって精神科で判定?されるものなのかな。これは診断されたらしいけど海外の話かつ特殊なケースだしなー。日本だとどうなんだろう。https://t.co/O2RRnFnrJQ
— かんそうぶん (@KansouBn) 2018年3月24日
海外は気軽に心療内科とか精神科にかかるって話を聞いたことがあるけど、日本は根強い偏見がある。ってとこから、そういう診断ってされるのか、されるとしたらどのくらいの頻度でなのか、患者に結果が開示されることはあるのか、というのがふと気になった。
たとえばHSPは日本だと診断してくれる病院って確か北海道に一箇所だったと思う。友人が精神科にかかった時、自分はHSPだと思うと話したけど、主治医がそれについてあまりよく知らなかったらしいし。いや、サイコパスとHSPだと知名度が違うから同列で語るなという話だけど。
おおー!ありがとうございます!「サイコパス」って言葉自体が軽く扱われてるし一人歩きしてる感じはしますね。
— かんそうぶん (@KansouBn) 2018年3月25日
どのくらい日本で診断例があるのかなどが気になるところなので、調べてみたいと思います!#マシュマロを投げ合おう https://t.co/EUe64c8hWX pic.twitter.com/TSbkAI7TT6
ありがとうございます!
そう言っていただけると励みになります!読んでいただけてうれしいです٩( ᐛ )و#マシュマロを投げ合おう https://t.co/EUe64c8hWX pic.twitter.com/l3h2oz06W5
— かんそうぶん (@KansouBn) 2018年3月26日
※その後DMもいただきました。
「わたしはこう思うよー」という意見を聞かせていただけるの、おもしろくて好きです。
考えることを放棄しない姿勢を好きだと言っていただけたのがすごくうれしいです!考えすぎと言われてしょぼんとした過去の自分に聞かせてあげたい。あとイッヌを褒めてくれてとてもうれしい!ありがとうございます!#マシュマロを投げ合おう https://t.co/EUe64c8hWX pic.twitter.com/PmiwjlndsO
— かんそうぶん (@KansouBn) 2018年3月30日
考えすぎとかこじらせてるとか、そこまでするのめんどくさくない?と言われたりを結構な数繰り返してきたから、考える姿勢を好きだと言ってもらえるのがうれしい。
— かんそうぶん (@KansouBn) 2018年3月30日
昔結構悩んだ、なんで自分はこんななんだろうって。だから報われたような気持ちですよ。
イッヌーーーー!!!うちのイッヌを褒めていただけてうれしい。
そう、うちのイッヌはかわいいのです…ありがとうございます。
イッヌ「これなに?」
— かんそうぶん (@KansouBn) 2018年4月1日
わたし「たんぽぽだよ」
イッヌ「たんぽぽ!きいろいね」
わたし「春の花だよ。少し経つと白いふわふわに変わるよ」
イッヌ「しろいふわふわ!ぼくだ!」
わたし「そうだね、また一緒に見ようね」 pic.twitter.com/gazXe7XSAX
ぬいぐるみ遊びをする患者