人生は突然終わる
ちょっと真剣な話をしますけど、数年前に親戚が事故死したんですよ。
— かんそうぶん (@KansouBn) October 10, 2017
否応無く、容赦なく、人生のどんなステージにいるかも関係なく、人って突然死ぬんだ、こんな理不尽なことがあるんだ、この人いま絶対死んじゃ駄目なタイミングなのにって思ったのね。
だからやりたいことはやらないとと強く思う。
従兄弟の死は突然かつ鮮烈だった。
彼の事故死によって、わたしの死生観は確実に変わった。
わたしはそれまで、「人間いつ死ぬかわからないし」と冗談のように語っていた。だけど心のどこかでは、人は並んだ列の前から順番に死んでいくんだと思っていた。こんなふうにランダムに、無慈悲に、気まぐれに命が失われることがあるのかとショックを受けた。
なにせ、彼は乳飲み子を残して死んだのだ。
絶対に今死ぬタイミングじゃないでしょ、というタイミングで死んだ。
これから人生がより華やかに彩られるであろうという、まさにその時だった。
見たかったもの、やりたかったこと、叶えたいこと、そういうもの全部お構いなしに、突然ぷつりとそこで終わる。全部がなくなる。未来が根こそぎ奪われる。
死ぬってすごいな、と思った。
これが死ぬってことなんだなと、嗚咽を漏らす弔問客を眺めながら思った。
悔いなき選択
生きるというのは選択の連続だ。
その選択が正しいかどうかは後にならなければわからない。
だから、後悔しないよう考え、選んで、生きていくしかない。*1
推し事絡みの話で言えば、わたしは過去、好きなコンテンツのために海外に飛んだ。それは本当に良い選択だったと思う。
自分も一歩踏み出せば、お芝居のために海を渡るなんてことができるんだ!と思った。舞台自体にも満足したけれど、自分が選んだ行動自体を嬉しく思えたし、楽しかった。走馬灯に楽しいことが流れるなら、きっとあの日も確実に出てくると思った。
美味しい料理を食べてお酒飲んで、誰かと一緒にたくさん笑った夜は「なんて楽しいんだろう、もうこのまま帰りに死んじゃってもいいなあ」と夢見心地で思うのだけれど、あのときの海外公演はそんな感じだった。
海外の公演は賛否あるけれど、そっちがふるい落とす気なら、喰らいついてやるぞ? こっちは本気だ、舐めんな、受けて立ってやる。地の果てまでも追って行ってやるからな!!! 最高の舞台を観せてよ、もっと興奮させてよ、目に焼き付けに行くからさあ? と思います。ほんとに。
後悔しないために
舞台を、動く推しを観たいなら、つべこべ言わずに行くしかない。
ぐだぐだ言ってないで解決策を考えろ。
金策なり根回しをして休みをもぎ取れ。
「ねだるな、勝ち取れ、さすればあたえられん」*2
労働があるのはわかる。休めないというのもわかる、とてもわかる。
だけど、同じ舞台は二度とない。
明日死ぬかもしれないのに、できない理由をつけて戸惑っている暇なんてない。
なんのために働いているのか、なんのために生きているのか。
楽しくなるために生きてるんじゃないのか。
自分の心が動かされるものがあれば、その理由が知りたいしもっと見たい。
高給取りってわけでもないし有り余るほど貯金があるわけでもない。でも、楽しくなりたいし気持ちよくなりたい。だからお金を使う。後悔はない。
語弊を恐れずに言えば、演劇なんて生活には必要ない。
なくても困らないし、一生観ないまま終わる人だっている。チケット代だって高い。これこそが、真っ先に生活から切り捨てられるジャンルのあるべき姿だとも思う。
全員に等しく開かれた世界じゃきっとない。本当に見たいなら多少無理をしてでもアクションを起こすしかない。
なんのために生きているのか。
気持ちよくなりたくて生きてるんですよ。
後悔しないように、やると決めたらなりふり構わず飛べ。
…だけどどうしても、どうやってもどうにもならないことってあるじゃないですか。
そういうときに、ちゃんとあきらめる勇気を持とうね、と思います。
自分自身のこれからや生活を守るための選択は、敗北でも恥ずかしいことでもないよ、と言いたい。
どうしてこんなことを言うか。
割と簡単に人間は壊れてしまうからです。
そしてよほど強固な意思がない限り、周りに流されやすいからです。
人間の意思と身体は割と弱い
わたしは新卒二年目で身体を壊した。
帰宅時間は25時。お金がないし食べる気力もないからと、ろくに食事も摂らなかったし摂れなかった。
労働時間と給与と精神的余裕が全く見合ってなかった。
休憩時間や有給さえなかった。
でも、職場の他の人にはそれが普通だった。
泣き言を言うのが許される雰囲気じゃなかった。
体力がない根性がないと見下され、身体を悪くしたことを軽蔑されるような雰囲気だった。
よくあるブラック企業というやつです。
舞台俳優のオタクをやっていて悩むことの一例として
「同担との関わり」「オタク以外からかけられる言葉」という問題があると思います。
「オタクの価値観 VS 一般人の価値観」
わたしの例で言うと「ブラック企業の価値観 VS 一般人の価値観」ですね。
望んで飛び込んだはずの世界の常識が苦しくて、どうしても馴染めない。
だけどこの世界ではこれが普通。
ついていけない自分の愛や情熱が足りないんじゃないか。
業界外の周りからは 「そんなの普通じゃないよ」「辞められないの?」「もっと将来の事を考えて」と言われる。
そんな事はわかっている。だけどあなたたちには理解ができないかもしれないし普通じゃないかもしれないけど、ここではこれが普通なの!!
自分が今いる場所の価値観を正当化して無理をして生きていると、それに適合していない人に苛立ちを感じるようになる。
「たいしてがんばってもないのに、なんでこの人はこんなに大きな顔ができるの?」
「そんなので恥ずかしくないの?」
「そんな姿勢で、なんでワガママばっかり言ってのうのうと生きてるの?」
少しずつ余裕がなくなって、心が狭くなっていきます。自分の考えや感情を無視して、自分の人生の手綱を手放し、価値基準を他者に委ね、満たされる事がなくなるからです。
典型的な「舞台俳優のオタク」の価値観を、わたしは本当にばかばかしく思うことがあります。
現場に入った回数、座席の位置、もらったファンサの数、お花のセンスやかかったであろう金額、渡したプレゼントやその額、どれだけグッズを買ったのか、円盤を積んだのか、ファン歴、果ては年齢、容姿、服装、現場での言動まで。
ありとあらゆるところで殴り合い、揚げ足を取り、マウンティングをしていますよね。
オタク同士、目に見えないヒエラルキーを勝手に作り出し、少しでもその上に登っていこうとする。
おそらく推しが全く気にしてないであろう部分で。
で、思うんですよ。
もしもそういう典型的な価値観を持つ「舞台俳優のオタク」が身の回りにいたり、深淵を覗きすぎて疲れていたら。もやもやを抱えている人がいるとしたら。
少し離れてみるのも選択肢の一つですよと。
穏やかに推すために
先に述べたブラック企業は、体を壊した時点で退職をしました。
それからしばらく経ちますが、今現在もわたしは同じ仕事を続けています。*3
幸いな事に、同じ業界に所属していながらも「世間一般的に良しとされる価値観」を持って働く事ができています。
だけど、健康は二度と戻ってきません。
もう過去のようには動く事はできません。
部活で大会に出るような、体育会系の健康優良児だったにも関わらずです。
「あきらめる」「あきらめない」の話が少し話題になっていましたね。
多くの方が「あきらめる」という言葉をフィーチャーし、自分のスタンスを語っている記事を書かれていたと思います。「自分はあきらめられない」「無理をしたい」と話しているものの、突き詰めると推し事は自分のため、それぞれの推し方があっていいというような内容に落ち着いていたのが印象的でした。
やはりブログを書く人は、自分の進みたい方向性を自分でちゃんと決めている。意思がしっかりしているなと思いました。
わたしの意見の根底も、ほかの方と同じです。
それぞれの推し方があっていいし、迷惑をかけなければ他人にそれを咎められる筋合いもないと思います。
だけど、もしも迷ったり悩んだりする事があれば、自分が何に拘っているのか、本当はどうしたいのかを考えてみるのも良いんじゃないかと思います。
同担との付き合いで、仕方がなくいろんな事に付き合っていたとしたら。
「なんとなく」雰囲気で、流されて推し事をしていたとしたら。
「自分のため」が実は建前で、同担を気にしてマウント合戦から降りられなくなっているとしたら。
今のように推し事ができなくなってしまう事、今の気持ちのまま推す事ができなくなることが、そのうちくるかもしれません。*4
だけど、毎回ちゃんと考えて選択をしていれば、きっとダメージは少ないし、誰かのせいにしたり後悔したりはしないんじゃないかと思います。
推し事と仕事という全く違う事を同列で語るのはナンセンスです。
だけど、その場の空気や常識に身動きが取れなくなって、人よりも随分早く「あきらめざるを得ない体験」をした人間としては、そんな事を思います。
誰かに振り回されたりせず、自分の意思で、無理せず楽しく推し事ができると良いですね。
蛇足。
きれいに締めようとしましたが、わたしはあきらめの悪いオタクです。海外は気軽に飛ぶし、国内も遠征をする。
なんでかというとやはり従兄弟の死が原因で「今しかない!」という気持ちが強いからです。あと「最悪死ねば問題はすべて解決するな!!!?!?!」という刹那的な気持ちで生きているからです。だから「行きたいけど行けない〜」「見たいけど見れない〜」といつまでもグダグダ言ってるあきらめの悪いオタクは嫌いです。
「あきらめる/あきらめない」の真逆にあるのは「決断できない」です。
決断もせず解決策も考えず、グダグダ言ってんじゃねーぞオラ、こっちは遊びで推し事やってんじゃ…あ、遊びではある。趣味ではあるわ、ごめん。
趣味だけど、「形に残らないものに数十万かけるのって、一般人からしたら正気の沙汰ではない」という事は忘れたくない(なぜならそれを忘れると視野が狭くなって正気を失う)し、お金を落とした分だけえらい!みたいなマインドはよくわからないし(一人の太客が出す額<大勢の客が少しずつ出す額には敵わないと思う)、イエーーーーーイ、後に残らないものにカネを使う!!!!!思い出は誰にも奪われない!!!!俺だけのもんやぞ!!!!!!他人にわからなくても自分が楽しければサイコーー!!!これがROCK!!!!みたいな気持ちで生きています。(ごめん、ロックの定義よくわかんないけど)。まあだいたいこんな気持ち
時間と労力とお金、そういうリソースを突っ込んで形に残らない楽しさを得るのが(語弊はあるけど)最高に無駄で狂ってて楽しいし醍醐味かなと思うから、リターンを求めるのが理解はできるけどしみったれてる気がする。引き際見誤って突っ込みすぎてるというか。もったいなくない範囲で遊ぼう!というか。
— かんそうぶん (@KansouBn) August 13, 2018
「将来の事を考えて貯蓄を〜」みたいな説教をしてくる人には「明日死ぬかもしれないのに楽しい事を我慢するなんて出来ません」「あなたは貯蓄をしたいんですね。ではそうすればいいと思います」としか正直思わないです。(大体大上段から説教をしてくる人は、自分の考えに確固たる自信が持てず、自己正当化のためにもっともらしい理由をつけて他人にマウントを取りたいだけなので)というか、そもそも推し事に何か言ってくる人がいなかった…。なぜならみんな、沼は違えどちょっと頭がおかしいから…
いやだ、またかんそうぶんStyleを発揮して、書きたいことを後回ししてしまった!
それでは、良い推し事ライフを!