感想を言うのがこわかった〜自分の考えを言うことの恐怖とその克服〜
今でこそ求められてもいないのにべらべらと自分の考えや感想、意見を書き連ねているけれど、実のところ、それはごく最近になって身につけたものだ。
わたしは自分の意見を述べるのを恐れる子どもで、大人になってもそれはしばらく変わらなかった。
こわいよね、自分の頭のなかを他人に見せるのって。
何がこわいって、間違えるのがこわい。
間違えて、否定されたり馬鹿にされるのがこわい。
不用意なことを言ったら、相手の考えと違うことを言ってしまったら、死んでしまうのではないかと割と長いこと思ってた(これは当然比喩だけれど)。
でも意外と死なないもんだなー!と最近思うし、思ったことは言葉にして公開してみようか、という気持ちになってきた。
今日は発信することの怖さ、特に舞台について何か意見を言うのはハードルが高いな…と尻込みしていた話、その怖さがなくなった話を書こうと思います。
これを書こうと思ったのは、今上演してるTake me out 2018がきっかけです。
もし興味があれば、いろんな人にこの舞台を観に行ってほしい…!そして #takemeout2018 のタグを見て、いろんな人の感想を読んで欲しい…!おもしろいから!当日券もあるから!(おもしろさを伝えられるような舞台自体のちゃんとしたエントリも書きたい…今書いている4つは主に自分用にざっくり書きなぐった部分ば大きいから)
このエントリを要約すると「自分語りがふんだんに入ってしまっているから手紙に書くには重たすぎるけど、Take me out してもらったと感じたこの気持ちを伝えたくて書いた暑苦しいラブレター」です。
とはいえ、普遍的な内容として読めるようにも配慮はしているので、お時間があれば読んでください。(本当なら、これ2エントリに分けたほうがいいやつだと思うんだけど。カテ違いだと感じたらすみません…)
内容は大きく分けて3つ。
他者に意見を言うのはなぜ怖いのか
わたしが自分の考えを述べるのが苦手だったのは、何かを発した瞬間、間髪入れずにそれを否定される環境に長くいたからです。
今考えてもあの否定の精度はすごい。お前…敏腕スナイパーだな!!?!!??
くらいの驚くべき反射神経で、口に出したことすべてを否定された。考えを述べれば論破され、感情を述べれば鼻で笑われ罵倒された。
ワーかわいそう!!!かわいそうな子供時代だ!!!!痛みに耐えてよく頑張った!感動した!(しない)
言葉でどうこうすることは無理だと無意識のうちに悟って、わたしはその他の分野で戦って結果を出して、他人を黙らせることにした。
記録だったり、賞だったり、そういうことで。
世に名を轟かすほどの傑出した才能はなかったけど、コンビニもないような田舎では、わたし程度のそこそこの能力でも戦うことは十分に可能だった*1。
生きることは勝ち負け、戦いだという意識自体を幼い頃に持ってしまったこと、これって結構その後の人生に影響を与えるなと思う。
なにもわたしの話だけじゃない。きっと多くの人がそういう意識を持って、長い間苦しむんじゃないかと思う。
人によっては死ぬまで。
勝ち組だとか負け組だとか、マウンティングとか。
世の中には人より優位に立ちたい人で溢れてる。
きっとみんな、心が擦り切れて、つかれて、悲しくて、認められたいんだと思う。
人より優れてることが認められる条件だと思ってるんだと思う。
しんどいよね。
意見を言うのは怖くないと気づき、克服した経緯
わたしは幸運にも大人になってから、勝ち負けだとか上とか下とか、そういう意識を持たない人たちと出会うことができた。
そして彼らと話をするなかで、「どうやら自分の考えを話しても、否定をしない人、馬鹿にしない人というのもこの世の中にはいるらしい」「それどころか、自分と違うことを面白がる人たちがいるらしい」というのをゆっくりと学んでいった。
こじらせにこじらせていたから、彼らのまっすぐな視線や問いかけを「責められている」と感じて勝手にこわくなったり、「実は無知で無学なわたしを笑っているのでは…?いやしかしこんな良い人たちがそんなことを?わたしの心が汚れているからそんなことを思うのでは?」とぐるぐると考えたりしたこともあった。
めんっっっどくせーーーな!!!
めんどくささがカンストどころか天元突破してる人間と普通に接してくれるなんて、彼らは前世でどんな徳を積んだんだろうか。
話を戻しつつ、質問です。
自分の意見を否定されて、腹立たしさや悲しさを感じるのって、なんでだと思いますか?
それは、「自分自身を否定された」と感じるからだとわたしは思います。
少なくともわたしはそうでした。
他人とつながりたくて、自分のことをつたない言葉で発信しようとしたけれど、受け入れられることはなかった。それを何度も何度も繰り返すたびに、だんだん自分が取るに足らない存在のように感じた。
それを補うために、「自分は素晴らしい人間だ」と自分で自分に何度も心のなかで言い聞かせた。そして少しずつ自分以外に苛立ちを募らせて、攻撃的になっていった。
今になって思えば、ただただ誰かに大事にされたかったんだなと思う。
大丈夫だよ、ここにいていいよと誰かに承認して欲しかった。
そんな弱さを認めたくなくて…というか気づくこともできなくて、泣くことすらできなかった。
なぜその状態を脱したかというと、先に述べた周りの人間のおかげというのがある。
彼らから学んだことはたくさんあるけれど、今回はテーマに沿って2つを取り上げる。
「考えと感情は別物である」
「意見を述べることと相手の人格を尊重すること・粗末にすることは別問題である」
この二つを混同している人は驚くほど多い。
順を追って話していく。
考えと感情は別物である
感情(かんじょう)とは、ヒトなどの動物がものごとやヒトなどに対して抱く気持ちのこと。喜び、悲しみ、怒り、諦め、驚き、嫌悪、恐怖などがある
・六情…6種類の代表的な感情
喜/怒/哀/楽/愛 (いとしみ)/憎 (にくしみ)
国などによってはそれ+別カテゴリとして、懼 (おそれ)、欲などが入ったりもする
Wikipedia 感情 より引用
雑に言うと、心が動くのが感情。
大辞林 第三版の解説
いけん【意見】( 名 ) スル
① ある事についてもっている考え。 「 -を述べる」 「 -を聞く」 「 -書」
雑に言うと、頭で考えたのが意見。
切り離すことは難しいけれど、この二つは別物。
- 自分の感情に向き合うことで自分の意見を持つことができる
- 意見を述べる時に感情的になることもある
- だけど「感情を乗せずに意見を述べる」こともできる。
1,2の例を挙げると
「シイタケはまずい。存在が許せない。あれは人の食べ物じゃない」
→シイタケに不快感を感じ、「まずい」という意見を持った(1)
→「存在が許せない」と感情的に意見を述べている(2。さらにここでは主語も大きくした)
これが1,3だと
「わたしはシイタケをまずいと思った」「シイタケは自分の口に合わなかった」
という感じに置き換えることができる。
というのを前提として、次の話。
意見を述べることと相手の人格を尊重すること・粗末にすることは別問題
先に述べた「感情」、これがすごく厄介だなと常々思っている。
人は、びっくりするほど言葉に感情を乗せて話す。
例えば居酒屋で上司が、部下が、本当に使えなくてムカつくんだよ、なんて管を巻いたり。
なんでわかってくれないの、と苛立ちを相手にぶつけたり。
盛り上がるために、内容のない会話でハイテンションに振舞ったり。
情報の伝達が目的なのに、そこに主観が紛れ込み、私情を交えて報告をしてしまったり。(無意識にこれをやる人間はものすごい数いる。むしろ主観と事実を分けて話せる人自体がものすごく希少。これでエントリ書ける内容なので今回は深くは触れない)
それは、コミュニケーションのゴールが「感情のやりとり・共有」を目的としていることが多いから。
よく「男は目的を持って話をするが、女は感情でものを言う、内容のない話を延々としてる。」なんて話を聞く。
確かにその傾向はある気はするけど程度問題で、男性でも議論をしつつ熱くなる人は多くいる。
言葉に感情を乗せずに、事実だけを伝えているなら熱くなることすらない。
感情のやりとりを重視すると、意見が食い違った時に「勝敗をつける」「とりあえず先延ばしにする」「気づかないふりをする」などが起きて、モヤモヤを抱いたり火種になったりしやすい。なぜかというと、意見を交換するのが目的じゃなくて、感情の交換が目的になってしまうから。
例えばシイタケが好きな人と嫌いな人が感情的に話した場合
「シイタケはまずい。存在が許せない。あれは人の食べ物じゃない」
「は?シイタケうまいじゃん。何言ってんの?シイタケの良さがわからないとか、お前人生の半分損してるわwwwwww」
キノコひとつで人類やら人生やらの話になって不穏。
ここで、感情を挟まず情報のみをやりとりする会話を例に挙げると
「シイタケは自分の口に合わない。まずく感じる」
「わたしはシイタケが好きですが、あなたは苦手なんですね」
冷静ですね。
え、それって盛り上がらないじゃんという人もいると思いますが(というか、たぶんそれが多数派なんだろうな…)、ここから会話を展開する方法はいろいろあります。
が、今回の主題とは逸れるので割愛します。
前振りが長くなってしまったけど、他人の意見に左右されてしまう人の多くはこう思ってる人が多いんじゃないか。
自分と同じ意見を言った人=自分自身を肯定してくれた
自分と異なる意見を言った人=自分自身を否定・攻撃した
それは感情のやりとりがメインになっていること、意見を交換しているようで、その実そこに乗せられた感情に振り回されてしまっていること、そして自他の区別がやや曖昧なことが原因かと思う。
でも実際は同意/反論をすることと、相手の人格を尊重する/粗末にすることはまったくの別問題。
シイタケを食べるくらいなら死ぬ!というシイタケ or dieな人と、一時間おきにシイタケを食べないと発狂する人でも、仲良くなることはできる。たぶん。そこまで極端だとちょっとどうかわからないけど。というかシイタケ or dieってなんなの。
それはさておき、相手が意見や情報のやりとりをしたいのか、感情の交換を求めているのかを把握できれば、他人の言動に必要以上に右往左往する必要は無くなる。
異なる意見を喧嘩腰で言ってくる人は、コミュニケーションを取るふりをして、相手を感情をぶつけるサンドバッグにしたいだけなので、取り合う必要はない(もちろん喧嘩腰だったり感情的に話していたとしても、聞くに値する場合もある。頭ごなしに決めつけるのはよくない)
関連するっぽい話はここにも書いてるので、もしよろしければ是非。
その①ってなんなんだろ、続ける気だったんだっけ…ウッ頭が…! そしてコメントの返信はお待ちください。今か今かと待ちわびていらっしゃると申し訳ないので、読者登録をするとベリーグッドです。レッツ登録。
「舞台」について話すのは抵抗があるのは…
他人に意見を言うことや反論されることは徐々に克服していった訳だけれど、なぜだか「舞台」について話すこと、これはには長い間抵抗があった。
(といっても、観劇するようになって日が浅いから1年ちょっとか)
わたしは「これは◯◯だ」と言い切る話し方をほとんどしない。
それが他人を操るのに有効な手段だということは知っているけど、極力使いたくない。
なぜなら、絶対的な正解などないと思っているから。
「Aさんはいい人だ」とBさんが言ったとしても、実は外面がいいだけで家では暴力を振るっているかもしれない。Bさんにとって良い人でも、Aさんの家族には彼は悪魔かもしれない。
「このリンゴは傷がついてるから売り物にならない」と農家のCさんが言ったとしても、アイデアマンのDさんが「訳あり商品として安く売れるよ」と言うかもしれない。
だけど、舞台に関してはそうは思えなかった。
「脚本家や演出家や役者には意図があり、それぞれのスキルを用いて舞台を作り上げている」
…つまりそれは、「彼らなりの明確な正解がある」ということだと思った。
その「正解」を表現し伝えることを目指しているんだと思った。
わたしは自分のスキルを目に見える形にアウトプットすることを生業にしている。
自分の仕事に対する姿勢にそれなりに矜持を持っているし、ここは絶対に譲れないという考えもある。
だからこそ、多くの人間が自分の技術を総動員し作る舞台に(的外れかもしれないけれど)ある種のシンパシーや尊敬の念を感じるし、大多数の観客の感情を動かすその世界自体が好きだ。
先に述べた、人の数だけ真実があるという考え。
そしてその世界への尊敬の気持ちがあるからこそ、「あそこの演出はこうだ」とか「この時の彼の気持ちはこうだ」と訳知り顔で断言口調で話す人に対してもやもやとした気持ちを抱えてしまう。
だって、それは「あなたが思ったこと」でしょう?
「あなたが目で見て、あなたのフィルタを通して、あなたが感じたこと」でしょう?
どうしてそれを絶対の正解みたいに話すの?
どういう立場で観ればいいんだろう、と宙ぶらりんな気持ちになることが結構あった。
だけど舞台Take Me Out 2018 がはじまって、毎日そのことばかり考えていて、ある時ハッとした。
その日もわたしは自分の解釈が正解なのかどうか分からなくて、初演の2016年の感想を書いたブログを探したり、ハッシュタグで他の人の意見を読んでうんうん唸っていた。
主人公・ダレンとデイビーの関係性について、自分と違う意見を見かけて考え込んでいた。
だけどふと、本当にふと思った。
正解ってあるのかな、自分が感じたことが正解でいいんじゃないかな、と。
普通に生きてても他人の行動の受け取り方は人それぞれだから、演劇なら尚更では?
絶対に伝えたいメッセージがあるとするなら、そこをうまく伝えるのが演出家であり役者の仕事なのだろうけど、100人いたら100通りの感想が出てくるだろうし、それはそれで良いのかもしれない。
観客である自分が気にすることではないのかもしれない。
Take Me Out 2018 は、観るたびに演技が違うなと感じる。
全体のテンポが速いと感じる時もあるしゆっくりだと感じるの時もある。同じ台詞なのに口調が違う時もあるし、雰囲気というか、舞台の上の空気がまるいなと感じる日もある。
ある回のアフタートークで、一つとして同じ舞台はない、役者さんそれぞれの空気でその一回限りの舞台を作り上げているという話が演出の藤田さんから出ていた(意訳)。
神保町でやっていた山口公一さんの写真展「NYの足跡 Shohei」で、拙いながらも「何回か観劇したけど、いつも見え方が全然違う」と在廊されていた章平さんにお伝えしたら、「そうなんですよ、毎回違うんです!」とふわっと笑って答えてくれた*2。
あ、そうか。
真実はいつもひとつ!とある漫画の主人公は言うけれど、いつだってただ一つあるのは事実だけで、真実は人の数だけ無数に存在するんだと思う。
自分の意見を外に出さない限り、自分から手を伸ばす努力をしない限り、新しいものや違うもの、「外側」のものは入ってこないし触れられないと思う。都合よく自分をどこかへ連れ出してくれる存在なんていない。*3
だから、わたしはわたしが感じた気持ちを「わたしの真実」として、これからも世界の端っこのほうで書き連ねていく。
*1:よっしゃ一旗揚げてやるぞオラ!と思って船出して、マストが折れるどころか船体まで破損し、数年かけてそこから立ち直ったのはまた別の話
*2:お見送りしてくださったんですけど、出て少し歩いてから振り返ったらまだ立っていて、ぺこっとお辞儀をしてくれて、あっ…これがイケメン仕草か…と思いました。そしてわたしは画廊で目があったご本人に「あ、本人(人の顔を見ないので本人だとあんまりわかってなかった)」とか、すごく馬鹿っぽいことを言った。馬鹿だから…仕方がない…
*3:ここでの「手を伸ばす」は主に多ステと毎日TMOについて考えること。やりたくてやってるので努力というわけではないけれど
*4:英語の使い方微妙じゃね?とかそういう細けえことはいいんだよ!